中学2年 第3回 社会 模範解答と解説
満点 100点(知識・技能60点/思考・判断・表現40点)
配点一覧 知技1(2×10=20)/知技2(2×10=20)/知技3(2×10=20)=60点
考1(2×6=12)/考2(2×7=14)/考3(2×7=14)=40点  総小問数 50問(全問 記号選択・各2点)
知技1江戸幕府の成立としくみ2点×10=20点
(1)ウ1603年に征夷大将軍となったのは徳川家康。アの織田信長とイの豊臣秀吉はどちらも征夷大将軍になっていない。エの徳川家光は3代将軍で、幕府を開いた人物ではない。
(2)イ1600年の関ヶ原の戦い。アの桶狭間の戦いは1560年で信長、ウの長篠の戦いは1575年で信長の戦い。エの壇ノ浦の戦いは1185年の源平合戦で時代がまったく違う。
(3)ウ大名統制の法が武家諸法度。アの御成敗式目は鎌倉幕府、イの分国法は戦国大名が領国に出したもの。エの公事方御定書は徳川吉宗が定めた裁判の基準で、大名統制が目的ではない。
(4)ア徳川氏の一族の大名が親藩(御三家など)。イの譜代大名は古くからの家臣、ウの外様大名は関ヶ原以後に従った大名で血縁ではない。エの旗本は将軍直属の家臣で大名ではない。
(5)イ関ヶ原以前から従っていたのが譜代大名で、幕府の要職につき江戸の近くに配置された。アの親藩は一族、ウの外様大名は関ヶ原以後に従った大名。エの御家人は旗本より石高の低い直属の家臣。
(6)ウ関ヶ原以後に従い、江戸から遠くに配置されたのが外様大名。アの親藩・イの譜代大名はいずれも要地に配置された。エの旗本は大名ではなく将軍直属の家臣である。
(7)イ幕府と藩が全国を支配するしくみが幕藩体制。アの封建制度は土地を介した主従関係一般を指す広い語。ウの律令制度は古代、エの執権政治は鎌倉時代のしくみである。
(8)ア幕府の政治を取りまとめた常置の最高職が老中。イの若年寄は老中を補佐する役職。ウの執権は鎌倉幕府、エの管領は室町幕府の役職で、いずれも江戸幕府のものではない。
(9)イ朝廷や西国大名の監視のため京都に置かれたのが京都所司代。アの六波羅探題は鎌倉幕府が同じ目的で置いたもので時代が違う。ウの大坂城代は大坂に置かれた役職、エの大宰府は古代の九州の役所。
(10)エ1635年に家光が制度化した参勤交代。アの刀狩は秀吉の政策、イの楽市・楽座は信長の政策。ウの上げ米の制は徳川吉宗が参勤交代と関連づけて行った別の政策である。
知技2江戸時代の対外関係2点×10=20点
(1)ウ渡航許可状(朱印状)を与えて行わせたのが朱印船貿易。アの勘合貿易は室町時代の日明貿易、イの南蛮貿易は戦国期のポルトガル・スペインとの貿易、エの日宋貿易は平安末期で、いずれも時代が異なる。
(2)イ東南アジア各地にできた日本人の居住地が日本町。アの唐人屋敷は長崎の中国人居住区、ウの出島は長崎のオランダ商館の島で、どちらも日本国内。エの宿場町は街道沿いの町である。
(3)エ将軍の代がわりごとに朝鮮から来たのが朝鮮通信使。アの遣唐使とイの遣隋使は日本から中国へ送った使節で向きが逆。ウの岩倉使節団は明治政府が欧米へ送った使節である。
(4)ウ1609年に琉球王国を武力で従えたのは薩摩藩。アの対馬藩は朝鮮、イの松前藩は蝦夷地の窓口。エの長州藩は幕末に活躍するが琉球とは関係がない。
(5)イ蝦夷地でアイヌとの交易権を認められていたのは松前藩。アの対馬藩は朝鮮、ウの薩摩藩は琉球の窓口。エの土佐藩は四国の藩で蝦夷地とは関係がない。
(6)ア朝鮮との外交・貿易の窓口は対馬藩(宗氏)。イの松前藩は蝦夷地、ウの薩摩藩は琉球の窓口で相手が異なる。エの長州藩は窓口に指定されていない。
(7)エ像を踏ませて信者を見つけ出す方法が絵踏。アの五人組は年貢と治安の連帯責任のしくみ。イの刀狩は秀吉の武器没収、ウの検地は土地調査で、いずれも信仰の摘発ではない。
(8)ア長崎につくられた扇形の人工島が出島。イの唐人屋敷は同じ長崎だが中国人の居住区。ウの平戸はもとオランダ商館があった場所だが人工島ではない。エの神戸は幕末に開港した港である。
(9)ウ寺が檀家であることを証明し、キリスト教徒でないことを確かめた制度が宗門改め(寺請制度)。アの五人組は年貢と治安の連帯責任のしくみで信仰の確認が目的ではない。イの楽市・楽座は信長の商業政策、エの検地は土地調査である。
(10)ア長崎での貿易を認められたのはオランダと中国。イのポルトガル・スペインはキリスト教の布教を行ったため禁止された。ウのイギリスは自ら撤退した。エの朝鮮・琉球は長崎ではなく対馬藩・薩摩藩が窓口。
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知技3江戸時代の産業・交通と文化2点×10=20点
(1)ア江戸・大阪・京都を三都という。イの三大都市圏は現代の東京・大阪・名古屋を中心とする地域。ウの五街道は道路、エの宿場町は街道沿いの町で、都市のまとまりを指す語ではない。
(2)ウ東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中をまとめて五街道。アの東海道はそのうちの1本にすぎない。イの南海路は海の航路、エの宿場町は街道沿いの町である。
(3)エ日本海から下関を回り瀬戸内海を通って大阪へ向かうのが西廻り航路。アの東廻り航路は太平洋側を通って江戸へ向かう航路で行き先が違う。イの南海路は大阪と江戸を結ぶ航路、ウの樽廻船は南海路の船の名称。
(4)イ刃が数本に分かれ深く耕せるのが備中ぐわ。アの千歯こきは脱穀、ウの唐箕は風で殻を選別する道具、エの踏車は水を田に入れる道具で、いずれも耕す道具ではない。
(5)ウ多くの歯で穂から実をしごき取るのが千歯こき。アの備中ぐわは耕す道具。イの唐箕とエの千石どおしはどちらも脱穀後のもみを選別する道具で、脱穀そのものには使わない。
(6)イ原料や道具を貸して家で作らせるのが問屋制家内工業。アの工場制手工業(マニュファクチュア)は人を1か所に集めて分業させる方式で、より後の段階。ウの工場制機械工業は産業革命後、エの座は中世の同業組合。
(7)ア17世紀末〜18世紀初めの上方の町人文化が元禄文化。イの化政文化は19世紀前半の江戸中心。ウの桃山文化は安土桃山時代、エの東山文化は室町時代で、いずれも時期が合わない。
(8)エ『奥の細道』の作者は松尾芭蕉。アの井原西鶴は浮世草子の作者、イの近松門左衛門は人形浄瑠璃の脚本家。ウの十返舎一九は化政文化期の『東海道中膝栗毛』の作者である。
(9)ウ19世紀前半の江戸中心の町人文化が化政文化。アの元禄文化は上方中心で時期も前。イの国風文化は平安時代、エの天平文化は奈良時代で時代がまったく異なる。
(10)ア『富嶽三十六景』は葛飾北斎。イの歌川広重は『東海道五十三次』、ウの喜多川歌麿は美人画、エの東洲斎写楽は役者絵で知られ、いずれも富士山の連作ではない。
思考・判断・表現(40点)の解答・解説
考1江戸時代の身分別人口の割合2点×6=12点
(1)イ85%を占めるAは百姓。アの武士は凡例に7%と示されている。ウの町人も凡例に5%とあり、エの公家はごくわずかで「その他」に含まれる。
(2)ウ自分の田畑を持つ者を本百姓というのに対し、土地を持たず他人の田畑を借りて耕す者を水のみ百姓という。アの名主とイの組頭は村の運営にあたる有力な本百姓の役職。エの地主は土地を貸す側で立場が逆である。
(3)エ5戸ずつまとめて連帯責任を負わせたのが五人組。アの惣は室町時代の村の自治組織、イの座は中世の同業組合、ウの株仲間は江戸時代の商人の同業組合で、いずれも百姓の統制組織ではない。
(4)ア幕府や藩の収入の中心は年貢だったため、確実に納めさせることが目的。イは百姓を村にとどめる政策なので逆。ウは刀狩以来武器を持たせていないので誤り。エは身分を固定する政策なので誤り。
(5)イAは85%なのでイが正しい。アは武士が7%なので誤り。ウは町人5%<武士7%なので誤り。エは7+5=12%で半分に遠く及ばないため誤り。
(6)ア人口7%の武士が85%の百姓から年貢を取って成り立っていた。イは武士が7%なので誤り。ウは町人が5%で収入の中心でもないので誤り。エは百姓が85%と最多なので誤り。
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考2鎖国にいたる年表の読み取り2点×7=14点
(1)イ1624年に来航を禁止されたのはスペイン船。アのポルトガル船の禁止は1639年で年が違う。ウのイギリスは1623年に自ら商館を閉じて撤退、エのオランダは最後まで貿易を認められた。
(2)イ1637年に九州で起こったのは島原・天草一揆。アの正長の土一揆は1428年、ウの大塩平八郎の乱は1837年の大坂、エの加賀の一向一揆は15世紀の北陸で、年も場所も合わない。
(3)ア1639年に来航を禁止されたのはポルトガル船。島原・天草一揆の2年後で、布教を伴う国を締め出す流れの総仕上げにあたる。イのスペインは1624年にすでに禁止、ウのイギリスは撤退済み、エのオランダは禁止されていない。
(4)アオランダはプロテスタントの国で布教を行わず貿易だけを求めたため認められた。イは布教しないことが理由なので逆。ウは地理的な距離は理由ではない。エは軍隊を貸した事実はない。
(5)イ一揆は1637年、(あ)=スペイン船の禁止は1624年なのでイが正しい。アは1635年>1612年なので誤り。ウは1641年>1639年なので誤り。エは1612年から1637年まで25年あるので誤り。
(6)アキリスト教の広まりが幕府の支配をゆるがすことを恐れ、同時に貿易の利益を幕府が独占するのがねらい。イは外国の学問を制限したので誤り。ウは海外渡航を禁じたので誤り。エは貿易を幕府が握ったので誤り。
(7)ア1641年に平戸の商館が長崎の人工島へ移され、ヨーロッパとの貿易はその一島に限定されて幕府の管理下に入った。イは平戸の商館が閉じられたので誤り。ウは商館員の行動は厳しく制限されたので誤り。エは貿易自体は幕末まで続いたので誤り。
考3江戸時代の三つの改革2点×7=14点
(1)ウ享保の改革を行ったのは8代将軍徳川吉宗。アの徳川家光は参勤交代の制度化、イの徳川綱吉は生類憐みの令で知られる5代将軍、エの徳川慶喜は幕末の15代将軍で時期が違う。
(2)イ寛政の改革を行った老中が松平定信。アの田沼意次はその直前の老中、ウの水野忠邦は天保の改革の老中で表にすでに名があるため誤り。エの新井白石は正徳の治を行った人物。
(3)ア商人の力を利用し、わいろで批判されて失脚したのは田沼意次。イの松平定信はその後に倹約政治を行った人物、ウの水野忠邦は天保の改革、エの新井白石は18世紀初めの儒学者で時期も方針も異なる。
(4)エ大名に石高に応じて米を献上させ、かわりに江戸滞在を半年に短縮したのが上げ米の制。アは年貢はむしろ強化された。イは商人への命令ではない。ウは幕府の米を売り払う政策ではない。
(5)イ株仲間が流通を独占して物価を引き上げていると考え、解散させて物価を下げようとした(実際には失敗)。アは貿易の拡大は田沼の政策。ウは軍事とは無関係。エは新田開発も田沼らの政策である。
(6)ウ田沼意次は株仲間を公認して営業税(運上金・冥加金)を取り、長崎貿易も拡大した。アは水野忠邦、イは松平定信(寛政異学の禁)、エは徳川吉宗の政策で、人物が異なる。
(7)エ三つの改革はいずれも悪化した幕府財政の立て直しが目的。アは商人の力を利用したのは田沼の政治で三大改革ではない。イは中心人物がそれぞれ異なる。ウは株仲間の解散は天保の改革だけなので誤り。
合 計 100点(50問×2点)
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落としやすいポイント
① 親藩・譜代・外様の区別…親藩=徳川の一族、譜代=関ヶ原より前からの家臣(要地に配置・幕府の役職につく)、外様=関ヶ原より後に従った大名(江戸から遠くに配置)。「関ヶ原の前か後か」が分かれ目。
② 四つの窓口と相手…長崎=オランダ・中国、対馬藩=朝鮮、薩摩藩=琉球、松前藩=蝦夷地(アイヌ)。選択肢問題では相手を入れかえてくるので、4組をセットで暗記する。宗門改め(寺請制度)と絵踏は、どちらもキリスト教徒を見つけ出すためのしくみである点もあわせて押さえる。
③ オランダだけが残った理由…「布教をしなかったから」。国力や距離ではない。
④ 三大改革と田沼の政治の見分け…享保=徳川吉宗(目安箱・上げ米・公事方御定書)、寛政=松平定信(囲い米・寛政異学の禁)、天保=水野忠邦(株仲間の解散・人返し)。田沼意次は改革ではないが、株仲間を「認める」側である点が水野と正反対。
⑤ 株仲間は「認める」か「解散させる」か…田沼=公認して税を取る、水野=解散させて物価を下げようとした。向きを逆にした選択肢が定番。
⑥ 農具の役割…備中ぐわ=耕す、千歯こき=脱穀、唐箕・千石どおし=選別、踏車=水の汲み上げ。作業の順番で覚えると混ざらない。
⑦ 元禄文化と化政文化…元禄=上方(京都・大阪)・17世紀末〜18世紀初め・松尾芭蕉・近松門左衛門・井原西鶴。化政=江戸・19世紀前半・葛飾北斎・歌川広重・十返舎一九。「場所」と「時期」の2点で判断する。
⑧ 年表の読み取り…「〜より前/後」と問われたら、必ず年号を書き出して引き算すること。選択肢の3つはわざと前後を逆にしてある。
解答一覧(採点用)
知技1 (1)ウ (2)イ (3)ウ (4)ア (5)イ (6)ウ (7)イ (8)ア (9)イ (10)エ
知技2 (1)ウ (2)イ (3)エ (4)ウ (5)イ (6)ア (7)エ (8)ア (9)ウ (10)ア
知技3 (1)ア (2)ウ (3)エ (4)イ (5)ウ (6)イ (7)ア (8)エ (9)ウ (10)ア
考1 (1)イ (2)ウ (3)エ (4)ア (5)イ (6)ア
考2 (1)イ (2)イ (3)ア (4)ア (5)イ (6)ア (7)ア
考3 (1)ウ (2)イ (3)ア (4)エ (5)イ (6)ウ (7)エ
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